第4部 進化論からの太宰治・太宰文学批判

目次

4.1 太宰治:人間失格(感想文 2009/8/13)
4.2 「純愛」への希求・感動・あこがれ
4.3  女性の男性選択本能と母性本能の混線
4.4 太宰治とその文学作品の進化論的反動性(その卑劣さ!醜悪さ!)
4.5 女性の進化の望まれる方向(人類の命運を決する問題!)

本文

  進化論は今や『論』ではなくて『学』とのことだが、未だ一般的ではないようので、ここでは『論』としておく。
 まず、太宰治そのものについては、彼の代表作で自伝的小説「人間失格」の主人公・葉蔵をここでは太宰治そのものとする。勿論、これには異論があるが、彼の他作品にも共通する人物像であり、小説「羅生門」にもあるとおり、同一事象についての各人の認識には多くの差違があり得る。また、他に適当・的確な太宰治の人物像を得る手段が見あたらないないこと、太宰治と葉蔵との差違は「羅生門」についての各人の認識の差違より小さそうであることから、太宰治は「葉蔵」であるとする。
 そこで、次に私の「人間失格」についての感想文を示す。尚、このころの私は彼の病跡学的な性格欠陥について知らなかったことから、かなり甘い評価も見られるので、多少の修正・加筆を行った。

4.1 太宰治:人間失格(感想文 2009/8/13)
 昨年秋にNHKの「私の一冊」において、押切もえというタレントが本書を取り上げていたので、読んでみての感想文を書いたが、今年は太宰治の生誕100周年とのことで種々にマスコミでも取り上げられていたので、それらを参考に加筆した。
 一読しての第一印象は、こんな人間が存在したのかという違和感である。私自身は実際いには遭遇したことがない。歴史的には、古代ローマのカエサル、近年では画家のピカソがそうであったらしい。但し、現在でもISSAなる男性がその種の人物らしく、女性タレントやモデル、セレブ女性達の間では評判らしい。彼の写真で見る限りでは、タレント・俳優のGACKTと同類かなとも思うが、私には実感はない。この小説では女性にモテモテの主人公が如何に駄目な人間で、「人間失格」となって、結局は破滅して行くことが示されるが、大いに疑問である。
 主人公は、一般的な意味からは極めて頭脳明晰で、ろくに勉強しないでも学校の成績は抜群、それに道化・喜劇役者的な能力も抜群で、直ぐにもプロになれそうなほどだ。それなのに、何を甘えているのだ!と言いたくなる。絵の方はさほどでもなかったようだが、それにこだわったのも、人間失格への道を主人公に歩ませるためには必要なことだったのであろうか。
 裕福な家に生まれたからか、空腹を覚えたことが無いなど、想像もできない。私は比較的裕福な家に生まれたが、それでも戦後の食料難時代には大いに空腹を覚えたものだ。大体、あれほど道化に励んだのに、その直後にさえ空腹を感じないなど、私には最も異常であろうと感じる。口の渇きはどうなのかな?やはり、感じないのかな?
 しかも、特筆すべきはまるで「光源氏」の生まれ変わりのようなモテモテ振りである。大部分の男は勉学に苦労し、経済的に苦労し、もてずに苦労するのである。幼少時からこれほどもてて、何が不足か?これまでの人生で女性にもてたことがほとんど皆無である私から言えば、これだけでも生きてゆく価値は十分にあるはずである。それとも、過ぎたるは及ばざるが如しか? 
 小説の構成から言えば、これほど多くの女性関係に言及する必要はあるまい。あまりにくどい。半分でも十二分であろう。しかし、もし、主人公が私同様にほとんど全くもてなかったとしたら、他の性格は全く同様であっても小説として全く成り立たないであろう。逆に、このようにもてさえすれば、他の性格が多少(或いはかなり)異なっていても、この小説は十分に成立するであろう。従って、この主人公の最重要な性格はそのモテモテ振りなのであろう。
 この小説で表現したいことは、主人公は上記のような種々の優れた特性を持ちながら、その内面は人間失格であると強く自覚していながら、それが外部からは小説の最後に述べられているように、

 『とても素直で、良く気がきいて、・・・・神様みたいないい子でした。』

と観られているこの落差の激しさにあるのであろう。どうやら、彼は兄弟からも愛されており、見捨てられはしなかった。父親だけは本人への教育的配慮もあってか、甘い顔は最後まで見せなかったのであろうが、影で兄弟たちが援助しているのを黙認しており、もしかすると自らは動けないので、彼等に援助を頼んでいたのかも知れないとさえ思う。彼は女達だけでなく、男達からも愛されていた誠に幸せな人間だったのであろう。

 これは太宰治の自伝的小説とのことだから、太宰も極めてもてたのであろう。彼の略歴を見るだけでそれは12分に窺える。そして、自殺して、ある意味では破滅した。太宰自身が自らを「人間失格」と判定していたのであろう。しかし、主人公は更正の可能性が十分にありそうに素人ながら思う。まづは、主人公の問題点の原点である「空腹」を徹底的に感じさせることだ。そのためには断食させる事であろう。それは「脳病院」、つまりは精神病院に隔離したのだから、容易であろう。餓死寸前の状況が続けば、本来の生命力が自らを「人間失格」などと見なす甘えを根底から覆して、つまり人間失格との思いこみ(恐らく、そのように思いこみたいのだ!)を裏切って、生まれ変わりそうに思う。だがその前に、数多くの濃密な性体験が生命の迸りを実感させたであろうに、それが更正のきっかけにならなかったのは、もてすぎた故の悲劇であろうか?  それとも私の経験では男の性的快楽はそのピークにおいてでさえ、もの悲しさ、虚無感を伴いがちであり、それが邪魔をしたとしたら、男とは悲しい生き物だと言うことになる。女はこの点ではどうであろうか?シェア・ハイトの「ハイト・リポート」によれば、女性のオーガスムではこのようなもの悲しさ、虚無感は無さそうではあるが。

 ここで大いなる疑問がある。この作品は女性に大いに人気があるということである。前述の押切もえも言っていたが、「私自身にも主人公と同じような駄目な部分、汚い部分があるのですが、この作品を読むと私だけではないと救われる。」
 冗談ではない!!!
 女性達よ、しっかりしてほしい!!!
 著者が自らの男としてのだけでなく、人間としての外面と内面の落差の激しさを描きたかったのであれば、何故、女のそれを描かなかったのであろうか?これを主人公と同等に描いてこそ、真の「人間失格」小説であるように思う。このままでは、題名を『人間失格」ではなく「男性失格」とすべきであろう。でなければ、人間とは男だけで女は含まれないとの古くからのジェンダー的偏見にも通じよう。しかも本小説には女性の人間失格を描くのに誠に相応しい登場人物、ヨシ子を天使のように描いているではないか。つまり、「無垢の信頼心」、「信頼の天才」と表現しているヨシ子の外面の天真爛漫さの内側に如何なる堕落が、毒が、悪魔が、つまりは人間失格ぶりが潜んでいるかを描かないのでは、いかにも不徹底で片手落ちであろう。そして、最後に男性達にヨシ子がとても良い子だったと評価させるのである。この場合の表題は「女性失格」であろう。こうして、「男性失格」と「女性失格」とが揃うことによって「人間失格」が完成する。女性読者はヨシ子の徹底した女性失格ぶりと、それにもかかわらず男達から高く評価されるのを読んでこそ、「私自身にも同じような駄目な部分、汚い部分があるのですが、この作品を読むと私だけではないと救われる。」と感じてしかるべきであろう。 
 しかし、そうなるであろうか?
 次のように場合に分けて考えてみたい。
 
(1)男性主人公の人間失格(つまり、本書のように「男性失格」)だけを描く。
 この場合、「救い」を感じている男性読者もいるが、それは女性読者より圧倒的(桁違い)に少ないようだ。

(2)上記提案のように女性の人間失格(つまり「女性失格」)を追加して描く。
 ヨシ子の人間失格ぶりを描いたならば、女性達はヨシ子に共感するであろうか。そうならば結構なことである。しかし、私には女性達はそうは感じないのではないかとの疑いを感じる。ヨシ子をその様に描いたとしても、女性達はそれでも男性主人公の人間失格ぶりに共感するのではないか?そうであれは、先天的(?)な、圧倒的な男性的魅力さえあれば、女性達はどのような欠点も人間失格も許してしまうというだけのことになるのではないか!
 但し、著者は男性なので、如何に天才作家であっても女性の人間失格ぶりを描くのは難しいのかもしれない。それならば、この作品のファンである女性作家に是非とも描いていただきたい。(例えば、惜しくも既に亡くなられたが、森瑤子氏などは適任だったかと思う。)「人間失格」の番外編として、もしかしたら人気が出るのではないかと思う。既に出版されているのかもしれない。それなら是非とも読んでみたい。そして、女性達にこの小説の魅力を聞いてみたい。恐らくは男性主人公がモテモテであるからというのが最大の理由であろう(そのようにはあからさまには表明し難いか?!)し、女性主人公は付録でしかないであろう。もし男性主人公がもてない男であったら、恐らく女性達はこの小説に見向きもしないであろう。

(3)女性主人公だけの人間失格(つまり、「女性失格」だけ)を描く。
  (1)の反対の設定となる。この場合、(1)において男性読者も女性より圧倒的に少ないながら、ある程度は存在することから、女性読者もある程度は見込まれよう。しかし、圧倒的人気小説とはなるまい。むしろ、悪女小説(勿論、主人公は絶世の美女)として男性にある程度の人気が出るかも知れないが、果たして、圧倒的なまでの人気を得ることができるだろうか?男性としての私には疑問である。

 さらに、ポルノ小説に一般的に共通することだが、主人公がこれだけ多人数の女性に対しての頻繁な性的関係にも拘わらず、女性が全く妊娠しなかった事を問題としたい。男女の性的関係が究極的には子孫を残すことが目的であるのなら、主人公のモテモテぶりは全く究極的成果を生まなかったことになる。もし、妊娠・出産していれば、女性はこれほどの魅力的な男性との子ならば、喜んで育てたであろうし、もしかすると男性主人公も子に対する愛情を感じて、「人間失格」状態から脱し得たかも知れない。実際、太宰本人も子どもを得て、一時期は幸福な家庭生活を営んだ時期があるようだ。つまり、子が得られなかったことが、究極的には主人公の「人間失格」を決定づけたことになろう。その意味では、子を得られないにも拘わらず、この小説が女性に圧倒的な人気を得ていることからは、この小説は女性にとっての「ポルノ小説」を意味するのかも知れないと思わせる。

  主人公、そして太宰治本人は、これほどもてただけで、生まれてきた甲斐が12分にあったわけで、幸せな人生であったろう。そしてこれに関わった女性達も、これほどの魅力的な男性と関わることができたのだから、幸せと思うべきであろう。だからこそ、太宰は未だに女性達に圧倒的に人気があるのであろう。うらやましいの一言であり、私とは対極にある主人公を扱ったこの小説を、その読後感の類を見ない酷い悪さの故に、また男としては嫉妬を込めて、2度と読みたくはない。
 最後に、人間進化論によれば、性淘汰、特に女性の男性に対する選り好みが人類の進化、特に人間としての特徴である文化・文明の発達には主要な役割を演じてきたと言われている。これからもそうであろう。
 ところで、太陽系は30億年後には太陽の膨張・爆発によって、地球は高温のために蒸発・消滅すると言われている。10億年ぐらいは太陽は現在とさほど変化しないので、人類は地球上で生存できるらしい。またその頃、我々の太陽系を含む天の川銀河は、隣の銀河系であるアンドメダ大星雲(銀河)と衝突して地球は存亡の危機を迎える。これを解決するには物理学の想像を絶するような進歩(そのためには人類の理系能力の進化が必要であろう)によって、他の銀河内の適切な惑星へ移住する以外には無さそうである。
 しかし「10億年はあまりに遠い!」とお考えであろう。だが、地球環境破壊は近年急速に進行して、100年後には人類は地上に住めなくなる事も考えられる。その時、人類は地球を捨てるのであろうか?それまでに他の銀河へ人類が丸ごと移住することは、過去百年の歴史から鑑みて、ほとんど不可能であろう。ならば地球環境問題を解決するしかないのだが、それに必要な総合的対策の核心をなすのは環境技術の飛躍的発展であろう。
 ならば、人類の未来のために女性には特にしっかりしてもらいたい。女性達よ!願わくはこの小説の男性主人公のような人間失格者については、その圧倒的な性的魅力には間違っても惑わされることなく、断固として排除してもらいたい。そして遠い将来の人類の生存をかけた適切なる進化のために、或いは近い将来の地球環境技術の飛躍的発展のために、理系男性をもっともっと大事にしてもらいたい。


 前述の女性にとってのポルノ小説的であるとの見方を補強する資料として、前掲の
1.6(8)平安寿子 「入り込み、入り込まれることの恍惚と動揺」
を以下に再掲する。

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1.6 「女が読む太宰治」筑摩書房編集部編、筑摩書房、2009/5/10
  (8)平安寿子 「入り込み、入り込まれることの恍惚と動揺」
  この著者も知らなかったが、子供の頃から児童書や漫画本好きだった彼女は文学全集は敬遠していたとのことである。
 中学生の時に学校の教材として『女生徒』を読んで、「冒頭の『パチッと眼がさめるなんて、あれは嘘だ』に、『嘘だ』と言い切るところが、実に我が意を得る思い。いきなり心の真ん中をぴしっと射貫かれ、わたしは身を乗り出した。」(あー、もう催眠状態だ!)
「・・・文章自体に快感物質が含まれていて、読むことで酔っぱらっていくのだ。その理由は・・・言葉の使い方から生まれるリズムにある。『パチッと眼がさめるなんて、あれは嘘だ。』は『パチッと眼がさめるなんて、嘘だ。』としても意味は変わらない。しかし、『あれは』の一言があるだけで、リズムが発生する。(女性はこんな幼稚なリズムに惑わされるのか!まさに催眠術師が使うメトロノームの単純なリズムと同様ではないか!!!)
 今では彼女もそれを自覚していて、「わたしは太宰の思うままだ。文章に頭の中をレイプされている。レイプされているうちに快感に悶える官能小説のヒロインは男のアホな幻想だと怒っている私が、・・・心の芯をギュッとつかまれ、すっごいエクスタシーだ。自意識を蹂躙され、イッてしまって、そのことが恥ずかしい。口惜しい。・・・今、五十半ばを過ぎたプロの小説家・・・なのに、太宰治に再び、脳みそをレイプされちゃったよお。そして、恥ずかしい事に、気持ちよくってイッちゃうんです。」と宣うのである。まさに女性のためのポルノ小説なのであろう。
 「セクシーなことなんかひとつも書いてない『女生徒』で、官能直撃、悪い人だ。・・・太宰治は女性読書家の永遠の恋人だ。こんな作家、ほんとに他にいませんよ。」とのこと、麻薬患者同然、まったく手がつけられない!
 但し、ここまで無茶苦茶に太宰の魅力を礼賛するとなると、著者の意図は、逆に太宰の魔力への重大なる警告と理解すべきであろう。そうではないかもしれないが、私としてはそのような観点から、進化論からの太宰批判に役立てることが出来そうである。
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 ここには過激なまでの表現で太宰文学の危険性が表現されている。私は太宰文学を「女性への危険なポルノ」と規定して、18歳以下の女性が読むことを禁止したい。
  主人公、そして太宰治本人は、これほどもてただけで、生まれてきた甲斐が十二分にあったわけで、幸せな人生であったろう。そしてこれに関わった女性達も、これほどの魅力的な男性と関わることができたのだから、幸せと思うべきであろう。だからこそ、太宰は未だに女性達に圧倒的に人気があるのであろう。うらやましいの一言であり、私とは対極にある主人公を扱ったこの小説を、男としては嫉妬を込めて、2度と読みたくはない。その文体は前述のように吐き捨てた痰のように不快・不透明・不潔なものだ!それは前掲の

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2.1(3) 第3回 西加奈子 2009/12/31 再放送録画
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での彼女の感想とは対極にある。

4.2 「純愛」への希求・感動・あこがれ
 一般的に言って、男女共にいわゆる「純愛」には強い希求・感動・共感があるようだ。例えば、「ロミオとジュリエット」や歌劇「アイーダ」、さらには近年の「韓流ブーム」などが人々に強い感動を与えるのは、それが「純愛」、つまり、異性として純粋に相愛するようになったこと、この異性選択を最大限に尊重する。そして、配偶者選択におけるそれ以外の金力、社会的影響力、権力などを考慮しない純粋な愛である場合、特にそれが愛以外のこれらの力によって妨げられる場合には、命をも賭して愛に殉ずることを至高のものとすることに人々は感動するのである!だからこそ、そのような純愛に強いあこがれがあるようだ。
 特に近年の「韓流ブーム」では、一時期の熱狂的だったブームは下火になったとも思われるが、現在でも「冬のソナタ」等の純愛ドラマに、男女関係の表裏に通じた中高年の日本女性達の熱狂は続いているようで、女性の純愛への希求・あこがれの強さを良く示している。これは女性の男性に対する選り好みの強さを示しており、次に述べるように、これが人類の進化の原動力であるとのことなので、人類の将来の進化に確信を持つことが出来る。
 然からば、何故に純愛を希求し、共感し、かくも感動するのか?
  私は進化論の性淘汰における配偶者選択の視点から論じたい。通常、雄と雌は出会って相手を観察し、何らかのコミニュケーションを行って相手を選別する。この選別は通常は雌が主導権を有する。雌は多くの資源を卵子一個当たりに投資するために、必然的に卵子の数が少ないので、極めて慎重に配偶者(雄)を選り好みする。雄はその精子一個当たりへの投資量が桁違い(10桁にも及ぶ?)に少なく、そのために数が桁違い(これも10桁?)に多い。そのために、出来るだけ多くの雌へばらまく事が最適な戦略となる。人類の場合、この女性の選り好みが進化の原動力であり、それは単に動物としての形態変化や脳の発達(大型化を含む)のような動物的進化だけではなく、それを基礎とした文明、文化の発展の原動力となってきた。つまり、
「豊かな語彙、絵画、音楽、スポーツ、慈善、道徳性・・・、人間の創造性や文化に深く関わるこれらのものが、従来の進化の理論では、どうにも説明がつかなかった。
 どんなに生存にすぐれた人でも、子孫を残せなければ、進化に貢献できない。我々の祖先は、生存にすぐれていただけでなく、求愛にもたけた人たちだった。どういう人を恋人に選ぶか、という視点に立つと、人を魅力的にみせるものがどうして生まれてきたのかが見えてくる。
 ダーウインに提唱されながらも100年にわたって顧みられなかった性淘汰の理論
を駆使して、人間性の起源にまつわる長年の謎を解き明かす。」(恋人選びの心-性淘汰と人間性の進化-1、及びー2、ジェフリー・F.ミラー著、長谷川真理子訳 2002,岩波書店)。
  この観点からすると、「どういう人を恋人に選ぶか」が進化にとって最重要である。そして、このように文明、文化を発展させてきた現在の人類の進化段階は過去の段階より良いとする前提に立てば、その選択(女性の男性への選り好み)は今後とも最大限に尊重されるべきであるということになる。勿論、男性の女性への選り好みも、それなりに重要ではある。(男性にとっては厳しい状況ではあるが、人類進化のためにはこれを甘受しなければならない。)
 男女が互いに選り好みする事になるわけであるから、相思相愛となる確率は低い。その中で、「ロミオとジュリエット」や「冬のソナタ」のような互いの異性としての魅力だけで成立する相愛・純愛では、金力・社会的影響力・権力などの他の要素力を考慮しない。いや、むしろ異性としての魅力以外のこれらの力が妨害すると、相互の想い・執着はむしろ高まって、あらゆる困難を克服するために命すら賭けることになる。
 一方、太宰文学には清らかさ、晴れやかさ、爽やかさが全く無い。文体にもモーツアルト音楽を連想するような透明感は全くない。登場する主人公、その相手役には、逆に、何とも言えない不透明で、不潔で汚らわしい、あたかも吐き捨てた痰を連想させる不快感がある。「人間失格」において「信頼の天才」とされたヨシ子ですら、登場直後は確かに清らかさ、爽やかさ、そして他者への献身の予感すら感じられたが、それを葉蔵自身が踏みにじり、さらに彼女が犯された後では、「地獄の愛撫」まで加えて、葉蔵自身は望まなかったにせよ、結果的にはヨシ子を徹底的に辱めたのだ。ここには清らかさ、晴れやかさ、我が身が報われなくとも子孫に望みをつなぐ(これこそ、個体ではなく遺伝子が主役であるという進化論の本質なのだ。)という態度は微塵も見られない。
 それどころか、「家庭の幸福」では、
『家庭の幸福。家庭の平和。人生の最高の栄冠。皮肉でも何でも無く、まさしくうるわしい風景であるが、ちょっとまて。』
 どうやら、ここで『トカトントン』が太宰には聞こえてきたようだ。後は推して知るべし!そして、最後には、やはり、
『家庭の幸福は諸悪の本。』
まさに、自己のエゴイズムを『家庭のエゴイズム』へ倒錯させている。これが太宰の得意技だ。
 また、放蕩を尽くして、それを楽しくない、苦しいとうそぶく。つまり、義のために遊ぶ、地獄の思いで遊んでいる、命を賭けて遊んでいる、と。文学のためならそれが許される、いや奨励されると、太宰だけでなくその信者も思っておるらしい。それがまさか放蕩の言い訳になるとでも、思っているのか?身勝手の極致の太宰や葉蔵ならそう思いかねないが。そして、「桜桃」の最後には、
『子供より親(つまり、自分)が大事。』
と言い放つ。まさに反進化論的主張で、清らかさ、晴れやかさ、爽快感、誠意とは無縁と言うより正反対だ。
 これは何故か?
 太宰治・葉蔵は他者を利用してナルシストとして満足することはできるが、愛することが出来ない。「ヴィヨンの妻」の男女などはその典型であろうし、太宰と関係した女性達はその愛が報われないままであった。太宰文学は誠意、献身、努力といったものを徹底的に蔑視した『下降指向』の行動を良しとするから、彼らからは爽快感が得られない。私の知る限りでは、山崎富栄の太宰への想いだけが、唯一といって良いであろう誠意と献身が清らかさを伴って窺える。但し、太宰本人がそれに値するとは到底思えないが。
 
 この事は、藤沢周平の小説と比較すると、明瞭となる。藤沢文学での主人公たちは、例えば「蝉しぐれ」などを読んでも、恵まれない境遇の彼らに不運が襲いかかるが、彼らは最善を尽くしながら、じっと堪えて、出来る限りの地道な努力を積み重ねる。やがて、その努力が実を結び、彼らの晴れ姿の舞台が描かれるが、それが何とも晴れやかな爽やかな印象で、読者に強い共感をもたらす。勿論、このような晴れ舞台が到来するという幸運は滅多には実現しない。そのことは読者も分かっている。しかし、それでも来るべき日を期して、誠意と努力を続ける姿に爽やかさを感じる。例え、自分の生涯には晴れ舞台は到来しなくとも、子や孫の世代には必ずや到来するであろう事を信じて、最善を尽くす姿を尊いと思うのだ。
 ここに藤沢周平文学の進化論的真骨頂があると信じる。
 (実は、残念ながら私は世の女性達による男性選択のいい加減さには辟易としている。身近な例では理系男性のもてなさぶりであり、また例えば、人気テレビ番組である明石屋さんま司会の「恋のカラ騒ぎ」なる番組での若い女性達による男性選択のいい加減さについては言葉もないほどである。そこでも理系男性の人気は極めて低いようだ。それでも彼女たちにも純愛への希求・あこがれは垣間見えるので、そのような傾向が確かに遺伝してきていると思われる。仮に彼女らの選択眼が極めて不完全なものであって多くの誤りを積み重ねてきたものであっても、極めて長い期間・世代交代によって篩にかけられて、それが今日の人類の進化をもたらしたのである。つまり、この不完全さは長い進化の歴史によってある程度克服されてきたのである。だが、折角ダーウィンの進化論の性淘汰が100年以上もの長い間の無視・偏見の元から日の目を見て再評価あれ、認知・発展されてきたのであるから、今後はより効率的な進化を期待したいものである。それには女性達の意識改革・進化が必要であろう。)
 藤沢周平文学では作者が男性であるからか、男性主人公が詳しく描かれ、女性はさほどでもないように思う。それにも拘わらず、女性読者の共感は男性に優るとも劣らないように感じられて、心ある女性は多いのだと誠に心強いかぎりである。

 良き子孫を得るための配偶者選びでの選り好みが死に直結してしまっては、文字通り元も「子」もない。しかし、そこまで突き進みかねない原動力は何か?そしてそれに多くの人々が共感し、あこがれるのは何故か?私はこの問題への進化論的解答を試みたものさえ知らないが、それは人類にはこれまで述べてきた意味での(他の金力などに惑わされない)純粋な異性選択による進化の方向への極めて強い希求があるためであり、だからこそ、それに清らかさ、爽やかさを感じるのだろうと私は確信している。

4.3  女性の男性選択本能と母性本能の混線
  では何故、太宰治のような男性が女性を容易に籠絡できるのであろうか?それは両性に共通するのだが、脳内の恋(異性選択・愛情)の中枢が脳の極めて奥深くに存在しているからなのだ。
 1992年、機能的核磁気共鳴画像法(fMRI)が開発され、脳の活動が画像的に研究できるようになった。それを相思相愛の男女に適用した研究により、恋愛の脳内メカニズムの解明が試みられた。
 「だから男と女はすれ違う」奥村庸一、他、ダイヤモンド社、2009/1/16
によれば、機能核磁気共鳴画像装置(fMRI)による検査で、恋する男女は共に同じ場所が活発に活動する。その一つは脳の中心にある脳幹の中の腹側被蓋野、もう一つは脳幹のすぐ外側の大脳基底核にある尾状核の先端部であり、ともに人類が哺乳類に進化する前に既に形成された「爬虫類の脳」ともよばれる動物的本能を担う部位である。それは哺乳類に進化する前から良き異性選択が必要であったから良き進化をしたのであろう。これに哺乳類となって大いに進化したであろう母性本能とが、その場所が隣接していることもあって結合したのであろう。
 つまり、母性本能が哺乳類となって大いに発達・進化する前から異性選択本能は発達していたのだ。従って、人類の雌(女性)にとっては、この二つの本能は極めて近い位置にあって、理性的な活動を司る脳内部分とは離れている。そのために「恋は考える・・・こととは全く次元が違う・・・」ということになったのだし(だから、昔から「恋は思案の外」というのであろう。)、母性本能もそれと同類の本能であろう。
 では母性本能の中枢はどこか?
 これについては、未だ母性本能の脳内活動部位の特定の研究例は見あたらないようだが、母性本能を大いに満たしたいと渇望しているとき、さらに母性本能を十分に満足させているときのfMRI画像診断によって、脳内のどこが母性本能を担っているかが判明するであろう。これはすぐにも判定できそうなので、今後の研究が大いに期待される。既に研究例があるかもしれないが、寡聞にして知らない。いずれにしても、人類の祖先が哺乳類となった頃という非常に古い時代に脳内深く形成・進化したのであろう。
  両者は脳内深くの近い存在であるので、女性の男性選択・愛情本能と母性本能は時として混線・混同しやすいことになる。それが女性のもてる秘訣の一つとして、女性の母性本能をくすぐることが昔から言われている理由のようだ。太宰治はこの手法の天才であろう。だが、これは前記の女性の男性選択の純粋さ(純愛)を汚すもので、その恋には爽やかさ、透明感、純粋な高揚感に欠けることになる。これは太宰文学における下降指向や「ヴィジョンの妻」の投げやり感の基礎となっているのであろう。これは人類のこれまでの進化の方向を妨げる作用をすることになろう。

4.4 太宰治とその文学作品の進化論的反動性(その卑劣さ!醜悪さ!)
 人間の進化論によれば、男性への女性の選り好みが正当に行われるなら、女性がこれぞと思った男性との恋に命をさえかけかねないことも十分に理解できる。しかし、太宰は女性の男性への愛情を司る本能と母性本能とが、進化の初期の段階から繋がっていることにつけ込むことに特に長けていたからこそ、そこにつけ込んで女性を籠絡して、あまりにそれがうまく行くので、飽き、嫌気さえ差して、女のいないところに行きたいなどとほざくことになる。
 これに反して韓流ブームでの女性達の熱狂には、太宰文学の特徴である下降指向、自らの弱点を口実に、相手の駄目さ、ひどさを許すような暗い陰、つまり、母性本能につけ込まれての悪縁の要素は皆無である。ここには女性達の理想、夢を仮想的ながら実現するような高揚感、上昇指向がその根幹をなしていることがその特徴である。これこそが尊重されるべきであり、望まれる進化を促進するであろう。
 人間が生物としてあまり進化していない時期から女性の男性への愛情本能と母性本能がある程混線しているこのことは、人間が主として常に絶滅の危機にあった時期には必要でもあったであろう。しかし、人間としての女性が進化の過程で新たな資質を獲得して、あるいは文化・文明・宗教によって、折角、ある程度は覆い隠してきたこのつながりを、太宰型の男性は掘り起こし、刺激して、女性の人間とは思えないようなこの古い面を暴き立て、進化過程においてそれらが埋没するのを妨げようとする実に進化論的反動性に満ちた、犯罪的行為を得意とするのである。女性の男性への愛情本能と母性本能の混線につけ込むことは、母性本能につけ込む「振り込め詐欺」犯人と同様に卑劣であると思う。これはある意味では、人間を麻薬中毒に陥れるも同然の行為であり、麻薬を強制的に処方しておいて、「そらみろ!あんなに人格者ぶっていても、麻薬中毒なれば獣にも劣る存在だ!」と非難するも同然であろう。麻薬に関しては男性も女性も区別がないことから、女性だけを取り上げるのが不当であると同様に、進化の初期に起因する女性だけの弱点をあげつらうのは不当である。男性もそれなりに古い面を隠し持っているであろうし、一部は現在でも表に現れているであろうから。但し、それが何であるか、また女性の一部は男性のこの弱点につけ込むことがあるのだろうか?という問題については、残念ながら全く知らない。進化学にとっても大きな課題であろう。

4.5 女性の進化の望まれる方向(人類の命運を決する問題!) 
 ここから、女性の進化における課題が浮かび上がる。女性は男性への愛情本能と母性本能とを大幅に分離する方向に進化すべきであろう。男性にも父性愛はあるように思うし、それは自らの遺伝子を残そうとする本能の反映であるとすれば、進化論からも説明ができる。しかし、人類も哺乳類であるので、女性の母性本能は男性の父性本能より遙かに強く、その影響も遙かに強いのであろう。
 しかし今や人類は増えすぎており、それが人類の危機の一因でもあるのだから、女性の男性への愛情と母性本能の結合・混乱を男性の女性への愛情と父性本能との結合と同程度に弱めた方が両性ともに幸福であろう。
 こうなると女性の男性選別は母性本能に惑わされなくなって、より厳しいものとなろう。男性はこれを覚悟しなければならない。しかし、それが進化の原動力あってみれば、これは男性の宿命であろう。このことによって、太宰型の女性の母性本能をくすぐる技能に長けた男性は姿を消すか、その技能はきわめて低い段階にとどまり、ほとんどの女性は惑わされなくなり、惑わされた女性も多くの子を残せないであろうから、いずれはこの傾向は消滅、もしくは現在より遙かに深く隠蔽されて、女性の、ひいては人類全体の不幸を惹起する可能性はきわめて低くなろう。

 ここで、太宰を弁護する論拠として問題となりうるのは生物の多様性の問題である。太宰型の男性がきわめて減少、さらには絶滅することは、人類の多様性の減少ともいえるので、人類の何らかの危機にはその耐性が低下することに理論的にはなろう。しかし、人類の進化を妨げる特性の減少・絶滅はより大きな害毒となるのであろうから、正当化されるようにも思われる。この点はさらなる検討・議論・研究が必要であろう。

  女性の男性への愛情本能と母性本能の結合・混乱がみられることは太宰治の例が典型的であるが、これを進化学的視点で見るとき、人類以外の動物、特に母性本能が強い哺乳類、さらには知能が発達している類人猿においてはどうであろうか。残念ながら、これに関する資料は見あたらない。しかし、類人猿の代表的存在であるゴリラについては、「背中にチャックがついていて中に人が入っているじゃないか」と思うと、上野動物園の飼育員が
言ったとのことである(2010/4/7、朝日新聞朝刊、34面、「五線譜」「すっかりママだね モモコ姫」)。してみると、ゴリラの雌にも雄選別と母性本能の結合・混乱があり得るとも考えられる。もしかすると、雄ゴリラは雌の獲得のために、雌の母性本能を刺激する手管を使うのかもしれない。しかし、その確認の方法が分からない。fMRIが有効に活用できれば、可能性が開けそうにも思われるが?

 最後に、人類の遠い将来について論じたい。人間進化論によれば、性淘汰、特に女性の男性に対する選り好みが人類の進化、特に人間としての特徴である文化・文明の発達には主要な役割を演じてきたと言われている。これからもそうであろう。
 ところで、太陽系は数十億年後には太陽の膨張・爆発によって、地球は高温のために蒸発・消滅すると言われている。まあ、10億年ぐらいは人類は地球上で生存できるらしい。またその頃、我々の太陽系を含む天の川銀河は、隣の銀河系であるアンドメダ銀河(旧大星雲)と衝突して両銀河は統合するかもしれないという大混乱を迎える。これは地球は存亡の危機となろう。これを解決するには物理学の想像を絶するような進歩(そのためには人類の理系能力の進化が必要であろう)によって、他の銀河内の適切な惑星へ移住する以外には無さそうである。
 しかし「10億年はあまりに遠い!」とお考えであろう。だが、地球環境破壊は近年急速に進行して、100年後には人類は地上に住めなくなる事も考えられる。
 その時、人類は地球を捨てるのであろうか?それまでに他の銀河へ人類が丸ごと移住することは、過去百年の歴史から鑑みて、ほとんど不可能であろう。ならば、地球環境問題を解決するしかないのだが、それに必要な総合的対策の核心をなすのは環境技術の飛躍的発展であろう。これは達成が想定可能な範囲内にある。
  太宰・葉蔵の主張に従うと、人類は「下降指向」が望ましく、それをを続け、将来は文化、文明、さらには言語すら失って(つまり、文学も失う)、映画「猿の惑星」の人類のようになりそうだ。あの映画では猿が言語や文化、文明を得て、武器としての鉄砲を扱い、独裁国家ながら国家組織を成立させている。しかし、彼らが銃、弾丸、火薬を製造できないが、人類が残したそれらを使うことは出来るという不自然な進化状態を想定することは私には出来ない。そこで、ここでの猿のような支配者が居ない状態で、人類が文明、文化、言語を失うというように退化するとすれば、人類のエネルギー消費は激減するであろう。そして食料増産も出来ないために人口も激減するので、地球環境は劇的に改善するであろう。ことによると、この方が人類の滅亡には遠いのかもしれないのである。
   しかし、私は理系人間,技術者として、人類の科学・技術による未来を信じたい。どこまでも「上昇指向」で行きたい。そして、喫緊の地球環境問題は勿論、私の子、孫の世代に技術的には解決すると信じる。
 そして太陽系や天の川銀河の消滅という遠い将来のこれらの途方もない困難を、人類は科学・技術によって克服して、生き延びると信じる。近代科学技術は高々この500年間に発展したものである。後10億年、まだ時間はたっぷりあるのである。
 
 ならば、人類の未来のために女性には特にしっかりしてもらいたい。女性達よ!願わくは太宰治のような人間失格者については、その圧倒的(悪魔的・麻薬的)な性的魅力には間違っても惑わされることなく、断固として排除してもらいたい(負け犬の遠吠えかな?)。そして遠い将来の人類の生存がかかった適切なる進化のために、或いは近い将来の地球環境技術の飛躍的発展のために、理系男性をもっともっと大事にしてもらいたい。
 逆に言えば、女性がそのように進化するかどうかが、人類の命運を決することになろう。